先月(9月)、新潮社から発売されたビートたけしさんの小説『アナログ』の売り上げが好調だそうです。

作家の角田光代さんによると、この本の<帯には恋愛小説と書いてあるし、分類としてはそれが正しいのだけれど>と前置きをしつつも、<この小説がいわゆる「ふつうの」恋愛小説と異なるのは、みゆきという女性の内面がいっさい描かれないところだ>とのこと。

「ふつうの」恋愛小説でなければなんなのか? <私にはなんとなく求道小説と呼びたいような作品だった>。求道小説?

 

■角田さんがいう「求道」とは?

求道小説の「求道」を、角田さんは<わかり合うことより信じることに重きを置き、捧げられることではなく捧げることを願い、与えられることより報いることに心を砕く>と言います。それはつまり、主人公・悟の、母に対する思いに由来するのではないか。角田さんは続けて、こう言います。

<彼の母親への思いは信仰に近い。信仰心が満たされることがないように、彼の思慕の念が満たされることはない。彼が求めているのは母の愛ではなく、母の愛に報いる何かだからだ。彼の感じる母の愛は大きすぎて、それに見合うものを報いきれない。そのことに悟はずっと苦しんでいる。そしてそれは、悟にとっての愛し方である。愛を求めるのではなく、愛を与えるのでもなく、信じ、かつ、信じたものに報いようとする姿勢こそが>。

 

■古今東西、男性の作家はしばしば母を題材にします

古今東西、男性の作家はしばしば母を題材にします。

井上靖さんの『わが母の記』は、文字通り母親のことを書いています。『あすなろ物語』も『しろばんば』も、母(育ての母である祖母)抜きには成立しない小説でしょう。

あるいは村上龍さんは現在、メルマガで母親にかなり言及している小説を連載しています。

海外に目を向けるとたとえば、イタリアの大ヒット映画『ニュー・シネマ・パラダイス』は、監督のジュゼッペ・トルナトーレさんが、主人公と母親との関係を精緻に描いています。この描写がないと、この映画は絶対に成立しえないと言っても過言ではないくらい、精緻に描いています。

男性の女性観のほとんどすべては、母親との関係がもとになっているのではなか。むかしはこういう思想って、わりとふつうにあったように思います。あるいはわたしの勉強不足ゆえかもしれませんが、最近のネットの恋愛コラムや紙の恋愛本で、このようなことに言及しているものが少ないように思うのです。

代わりに増えているのが、「彼氏のホンネを見抜く方法」とか「最近わたしに冷たい彼氏はなにを考えている?」というような恋愛コラムでしょう。

紙の恋愛本だと、たとえば心理学にもとづいた恋愛のハウツー本は、「書店における定番の本」になっているように見受けられます。おそらくハウツーを読んだほうが、手っ取り早く恋愛の方法を知ることができる、と多くの人が考えているのでしょう。

 

■アナログ時代からなんら変化していない男の恋愛観

しかし、手っ取り早く役に立つものは、すぐに役に立たなくなる――こういう真理に気づきはじめた人がおそらく増えてきているのか、ハウツーものの記事ではない、なにかほかの記事を求めてくる媒体社がちらほら出てきています。

なにかほかの記事とは、わたしのもとに届く数字(多くの人に読まれたか否かの指標となるデータ)をもとに言うなら、表層的なハウツーではなく、恋愛というコトの本質をわかりやすく解説するような記事です。

恋愛というコトの本質は、むかしに立ち返ると見えてきます。恋愛というコトは、女性から見れば、男という生き物の本質を含むわけで、男という生き物の本質は、アナログ時代からなんら変化していないから。

母親を大事にしている男は、彼女のことも大事にする。たったこれだけの真実が、男性の恋愛観の根底にあると、古今東西の書物はわたしたちに教えてくれているのではないでしょうか。このことを、人気者として(あるいは小説部門でも一等賞を狙っていた)たけしさんは、ごくシンプルにわたしたちに伝えようとしているのではないでしょうか。

なぜならたけしさんにとって、もっとも切実な問題とはおそらく、母親との関係だから。どうじに、書き手にとって切実なことが書かれていない小説を、人々はふつう、小説とは呼ばないから。

恋愛という洋服を着ている「母親と格闘してきたこと(していること)」。これが男の恋愛観の根底に流れている、ときに激しく、ときに静謐な交響曲ではないでしょうか。(ひとみしょう/文筆家)

(愛カツ編集部)

 

※参考・引用 わかり合うより重要なのは 角田光代/『アナログ』ビートたけし(Yahoo!ニュース/新潮社ほか)